ひねくれた会話
この間会社で、ある女性社員の自己紹介プレゼンをみんなで見る、という機会があった。その中で発表者の社員が、いわゆるリア充な大学生活を歩んでいたことと共に「『仲間』の大切さ」というようなことを繰り返し言ってたんですね。その時はなるほどー、くらいにしか思わず普通に聞いていて、それからみんなで飲み会に行ったのだが、その帰り道で同僚の人とひねくれた会話をした。
「『仲間の大切さ』っていう言葉をめちゃめちゃ繰り返しててすごいなーと思いました。自分、あそこまで正々堂々と『仲間!』なんて発言したことないですもん。』というようなことをその同僚が言った。彼は学生時代はバンドやってたサブカルチャー人間なのだけど、たぶん発表者の人が経験してきたリア充っぽさとは正反対の学生時代を過ごしていたに違いないタイプだった。あーこの人は確かに『仲間』なんてこそばゆくて発言しなさそうだなーと思って、そうですね~なんて返事しながら笑ってた。そしたらその同僚が、「スドウさんとか、『仲間!』なんて言葉を発言したことあるんですか?」と聞いてきたので、私は「いやーそんなに無いと思います、あんなキラキラした学生生活を過ごしていたわけではないので…」というようなことを答えた。
おそらくこの同僚の人は、私がそういう回答をするだろうと予想した上で聞いてきたと思う。なぜなら、以前からこの同僚と私はさんざんかつての自分らのこじらせた話をしてきた間柄なので、スドウなんぞが『仲間』発言をするほど仲間に囲まれたタイプの人間だろうことは、彼にとって容易に想像ができたはずだ。まあ、そういうのがわかった上で、自分らとは違うタイプのキラキラ人間について考察を述べ合うのは、我々ひねくれ人間の娯楽のひとつであるので、珍しい話ではない。
で、その話はそれで普通に終わったんだけど(実際はそのあとの帰りの電車でも、ナンバガとかオザケンなどの話をしていたんだけど)、ふと後から冷静に、私って実際のところ仲間発言しない系の人間だったっけかなーと思い返してみた。
そしたらですね、このブログの過去記事も含みますが、案外「仲間って大事だー」的な発言をしてたんですよね。仲間と行くフジロック最高!バイト時代の最強の仲間!みたいな。なので、おお自分にも仲間いたじゃん、仲間発言してるじゃん、キラキラしてるじゃん、とひとり妙に納得してしまった。
結局、仲間というようなものは、キラキラしてるしてない問わずいる人にはいるもので、要はその『仲間』というのを自分のアイデンティティとして公言するかしないかが問題なんだと思った。たぶん同僚の人も、それこそバンド時代の仲間とかいただろうし、彼だって自己紹介プレゼン発表者の彼女と同様に「『仲間』の大切さ」を語ったって別に良いはずなのだ。けど単に自分のバンド時代を「仲間に支えられて…」みたいな言い方するのが本人的に気に入らないってだけの話だ。
自分は周りと違ってマイノリティーだ、というあからさまな自意識の持ち方はもうさすがにしなくなった。自分は他と同じ多数の中の単なるひとりだよ、くらいには思うようになったけど、でも単なるひとりなりに自分を『仲間』の切り口で見せるか、『過去こじらせてた』の切り口で見せるかのプライドは、最後の悪あがきとして今も自分の中に残っていたりするんだろうな。アイデンティティ云々というのも、結局はただの好みの問題に左右されそうだけど。
ちょっと話は代わるけど、また別の日になんかの会話の流れでこの同僚の人に「スドウさん、自意識過剰ですよ!」と突っ込まれたことがあり。何人かで他愛もない会話をしていた中なので、そんなに重く受け止めるような話ではないんだけど、改めて冗談でも「自意識過剰」って言われるとけっこうショックだな。
というのも、よく私は情けないことに、会社でも「どうせ自分なんてダメっすよ…」みたいな発言を(冗談っぽくではあるけど)することがあったんですね。そういう日々の様子と過去こじらせてたであろう事実を踏まえて「自意識過剰ですよ!」と言われたのだとしたら、もう完全に自意識過剰じゃんと我ながら認めざるを得なくてダメージが大きい。そして恥ずかしい。が、そんな深読みをすることほど自意識過剰の典型なんですがね。ああ、気をつけなきゃと反省したという話です。
自分が思ってるほど周りは自分のことなんぞ気にしてない、というのはすぐ忘れるので定期的に思い出す工夫しないとダメなやつ
— スドウパン (@nahosoo) 2016, 1月 14
でも自意識過剰ってやつを気にし始めると、自分の発する言葉や行動すべてが自意識過剰に思えてきて、負の連鎖が起こるから注意が必要。極論は、他人にも自分にもあまり注意を向け過ぎないことが大事なのではという気がしている。
ふと思ったこと
仕事でもろもろのデザイン・制作関連をお願いしていた個人事業主の方がいて、今日出来上がったものを見に行ったら、とてもすてきなものを用意してくれた。準備するにもいろいろお手数をかけていて、今日も1日完成までに長い時間を費やしてもらっていたので、改めてお礼を言ったら「いやいやいや、これもお仕事ですので!」と腰を低くして言われた。なんか、ハッとした。
たぶん、個人でデザイン業やっているとクライアントから無茶を言われることも多いだろうし、直前でバタバタと修正や追加作業が入ったり、やってらんないよーってことも何かとちょくちょくあるのだと想像している。けど、彼はなんだか愉快というかユニークなキャラで、ほがらかなんですよね。楽しそうとも言えるのか。いや、絶対疲れとかあると思うんだけど、こちらが依頼していたものをより良くしようという意気込みがあって、ギリギリまでこだわった提案を積極的にしてくれて、今夜も遅くまで作業をしてくれる予定で。でも、「お仕事ですので!」って言えてしまうのがすごい、と思った。
考えてみれば当たり前か。仕事は、お金を稼ぐために、お金をもらってするものだ。遊びではない。お金をもらう分、責任を持ってクライアントなり会社が求める成果物を出さなきゃいけない。本来そういうものだ。なのになんかそういう当然のことも最近忘れかけていて、もっと落ち着いた環境で働きたい!みんなビジネス意識高すぎて苦手!みたいな、本来どうでもいいはずの側面にばかり注目して、不満ばかりで勝手に働きたくない病を発症していた。これ全然はたらくことの本質じゃないな。
仕事や会社はお遊びサークルじゃないのだから、「お仕事ですので!」と割り切って、期待されている成果物を出すためにがむしゃらになるのが普通っちゃ普通だ。そうだった。ここ最近よく言われるような働きやすさ、みたいなものももちろん大事だけど、そりゃそういうのがあったに越したことはないけど、そればかり求めて仕事や会社に余計な期待をしたり理想を押し付けようとしても仕方ない。
基本は「お仕事」なのだ。お金をもらってやらせてもらうからには責任感と積極的な行動を起こしてより良い成果を出すことにだけ集中すればいいのだ。それ以上でも以下でもない。お金をもらいながら、わざわざ私の居心地が良い場所を用意してもらう義理がどこにあるか。
そんな前提があった上で、言うても仕事は人生の大半を占めるから、自分個人の人生と一続きで楽しめるようなことを仕事にできればいちばんいい。もしそうなれたら、心意気のある仕事ができるしそれを楽しいと思えるし、人生全体が充実するんだろう。
そして冒頭のデザインやってる彼も、そんな具合に「お仕事ですので!」と言いながら、思い悩んだりもするだろうけど割り切るところ割り切って、それでもなんだか楽しそうに愉快にほがらかに生きているんのかなーなんて思った。自分もそういう風になりたいなーとか思ったという話でした。