なにを考えて生きようか
腹立つこと。イライラすること。
目の前のことにいっぱいいっぱいになるのはわかる。
それでも、ひとつだけに集中していいのならまだ苦労はしない。
けど現実はあまくなくて、ヒーヒー言いながらも他にも目を向けてこなさなきゃいけないこともある。
でもだいたい、ヒーヒーの時は周りが見えなくなって、どんどん糸がからまってぐちゃぐちゃになって爆発することがある。
大人になればなるほど、同時にこなさなきゃいけないことは増えていくように思う。
そこでいかに空気に飲まれないかどうかが勝負でございます。
もう無理だと思ったら、あきらめるのも、才能のうちなのかなと感じるようになりました。
今までは何となく、負けず嫌い的な感覚で、意地でもやったるわと頑なになった結果、すべてが空回り何一つ達成できずに、自信と信頼を失う自己嫌悪に陥っていたりしました。
それもこれも、自分はやればできる子だ、と自分を過信したせいです。
まあ無理してがんばればもしかしたら出来ることもあるかもしれないけど、それをそのまま無理してやり抜こうとすると、保ってた自分のペースとか視野もくずれて、本当に出せたはずのベストも果たせず仕舞いというのがオチです。
自分はもともとそんなに出来る人間じゃない。
無理なものは無理だし、限界がある。けどそれは個性だから仕方ないこと。
もちろん、成長してできることが増えていくこともあるけど、
そこに自惚れることなく、ある程度自分の限界はここまでだろうな、という感覚を冷静に持ち続けて、無理だと思ったら無理だ、と潔く振る舞うのもひとつのセンスだし、能力なのかなあ、と。
今ある自分の最大限の活かし方、という見方は大切だと思っています。
今ある自分は限界があるし、できないこともある。万能な存在ではない。
それをわかった上で、どうすれば自分の限界の中でよりよい結果を残せるか。
そういうコントロールの仕方とか、ある種のあきらめというか、気の抜き方とか、余裕を持った生き方をするのがいちばんよい気がしています。
そうすると、自分のできない部分は自然と他の人がカバーしてくれるし、自分ひとりでどうにかしようとする以上に、力を抜いている割に良い物が出来上がったりするんじゃないかと思います。
自分を見失いたくないし、できるならばゆるりと楽しく生きたいもので。
出来るところはとことんやるけど、抜くところは抜いて。やってもらえることはとことんやってもらって。そうそう、「してもらう力」もひとつの才能。
そう、自分に言い聞かせています。
でなきゃこの社会人生活生きていけそうにありまへん。
別に毎日遅くまで残業するのが良いことではないし、だからといって早く帰れるのが良いとも言えないし。それぞれのペースがあるから、それぞれのペースで仕事もすればいい。自分のいちばん心地良いペースで。他人の秤に合わせてこれが最適だ、とか思っちゃいけない。自分の人生生きているのは自分だけで、自分の経験のもとでしか、自分にとって最適な判断などできない。
だから、自分はこう思う、っていうのがあるのは良いことな一方、
それを他人に強要する権利もない。そんなのうざいこと極まりない。
自分と他人は割り切ったほうがいい。どんなに近くても仲良くても、違う人間だから自分がコントロールできるものじゃないし、ある程度ほっといていい。
とはいえ、本当に大事な人で、お互い信頼している関係であれば、どこまでおせっかいをするべきで、どこから放っておいてもいいっていう感覚も自然にそれぞれ出てくるような気もしている。放っておいたからって仲が悪くなることもない。そういう説明できないバランスというか、絶妙な関係って確かにあって、そこに流れを任せてしまえばどうにかなる。
そういうのも実際、たくさん失敗して裏切られた気持ちになって、もう絶交だと思って、いつのまにかまたつながって、やっぱり好きだというような、面倒くささ極まりないプロセスを何度も繰り返していくうちに出来上がる、かけがえのない関係なんだろうと思います。
だからつまりは、いろいろ書いたけど、たくさん失敗して嫌な気持ちになりながらだんだん気を抜くことを学んでいくと、なんとなく心地良い生き方が見えてくるんじゃないの、というお話でした。
最初から器用に生きようとしないことがいいのかもね。人間だもの、感情的にもなってなんぼのもんじゃ。
適当に生きましょう。