日々1989

日記です

自分だけの自分じゃないと思ったことがあるか

俺のものは俺のもの。お前のものは、知りません。

 

と、この年になりましたが、

「自分だけの自分じゃないな~」っていう感覚は

あまり持ったことがありませんでした。

ちょっと言っててよくわからなくなってきたけど、

つまり、自分という存在は、自分だけのものじゃなくて、

誰か他の人にとっても、重要な存在で、

いなくなったり、悲しんでほしくない、

と誰かに思われている自分の状態のこと。(よりいっそうわかりにくい)

 

いちばん身近な例でいくと、親とか家族になるのかなあ。

親は自分のことのように子どものことを心配するし、

幸せになってほしいと思っている。一般論なので例外はあるにしても。

私の親も、たぶんすごい私のことを心配はしてくれていて、

私が自暴自棄になって、自分を痛めつけるようなことがあった時には、

「あんただけの体じゃないのよ!自分大事にしなさい!

じゃないとお母ちゃんつらいんだよ!」

みたいなことを言われると思います。

実際なったことないんで、予測ですが。

 

その気持はよくわかる。

私だって親とか家族が、自身を粗末に扱うことがあれば、

本気でやめてって思うと思う。

でも、もはや家族間ではその感覚が当たり前すぎて、

そう思ってくれてはいるんだろうけど、

そうであるはずだ!と特別思い起こすことでもなくて。

「自分だけの自分じゃない」という感覚を

改めて実感するまでもないのが正直なところです。

 

友達にしても、大事な人はいろいろいるけど、

そうはいってもそれぞれが別に自分の生きる世界とか居場所があって

そういうものだっていうのも、わりと互いに一定の理解があるので、

それほど、誰かに所有されているような感覚は持ちにくい。

 

ところがどっこい、

恋人とか、すきな人に対しては、こういうある意味所有的な感覚が生まれるのかもしれません。

他の人たちがどうなのか知らないけど、

少なくとも、自分以外の人と関わる相手を許しておけなかったり、

相手の予定や人間関係、考えていることをすべて知っていないと気がすまなかったり。

いわゆる束縛みたいなものが発生すると、

「自分だけの自分じゃないから、気をつけなきゃ」みたいな感覚が

わりとわかりやすく感じられるようになる気がしています。

 

なんでだろう、っていう時に考えたのは、たぶん、

家族になりかけているからなのかなーって。

まあ、実際に結婚して夫婦になってパパ・ママになるかどうかは、

そりゃ現時点ではわからないことが大半だろうけど、

少なくとも、付き合っている時点でその可能性はゼロではない。

もし家族になることを予想すると、親が子どもを心配するような、

ただの友達関係以上に強いつながりが育まれて、

相手は自分の一部で、自分は自分だけのものじゃない、

っていうことになるのかなあ、と。

 

うーん。実際どうなのかわからないですけれども、難しいです。

私は、けっこうこの「自分だけの自分じゃない」という感覚が

どうも慣れなくて、どんなに絆が深かったりすきだったりしても、

自分は自分で生きていたいとか、思ってしまったりするのです。

すぐに自由で適当で楽しい方に流れたくなってしまうのです。

どんなに大事な誰かがいても、その人ひとりのためだけには生きられない気がする。

自分ひとりの時間というのも、すごい大事だと思っている。

 

でも、これが自分の良くないところな気もしています。

いつまでもこんな感覚では生きられない、どこかでちゃんと

大人にならなければいけない。

まあ、「自分だけの自分じゃない」を受け入れられるのが

果たして大人なのかどうかもよくわからないけれど。

年を重ねるにつれて、落ち着かなければならないことも

増えていくということでしょうか。

好きなことばかりして生きていくには、少々難しい年頃かもしれません。

 

「自分だけの自分じゃない」はすごく重たく感じたりもするけど、

実は幸せなことで、感謝するべきことでもある、のかしら。

極端な話になってしまうけど、

今までは自分のためだけに生きていたものが、

自分の命に替えてでも守りたい人ができるというのは、

ものすごいことですよね。

それだけ自分の存在する価値というのが、

誰かにとってはものすごく重要なわけで。

あーこのために生きていたんだな、なんて思ったりするのかも。

 

とはいえ、世の中バランス、という身も蓋もないこと言ってしまいますが、

もちろん、自分だけの自分じゃないくらいに

誰かと強い絆を持てていることは、すばらしいことで、

大切にしなければならないことです。

でも、そればかりになってしまうと、

その絆はどんどん鉛のように重たくなって、

自分だけの自分じゃない自分は、

巨大な錨のように、錆びながら海底へと沈み入ってしまい、

二度と別の風景を見ることができなくなってしまうかも。

大切なものはあっても、それひとつだけを見つめていなきゃいけないことはなくて、

ある程度自分中心になってみたり、

他の居場所をつくって息を抜いてみたり、

大切なものや人だけでは得られないような体験も、

きちんと得られるような居場所は、いくつかあったほうがいい。

そういう心の余裕は、きっとより大切なものを大切だと

感じさせてくれる、良いスパイスになるんじゃないかしら。

 

だいぶ偉そうなことを言った気がする。

とりあえず、世の中の人間関係を育むみなさん。

LINEの既読機能などに踊らされないよう、

時にはデジタルデトックスして、いつもの趣味に没頭してみましょう。

なんだかすごい有意義でおもしろい答えが見えてくるかもよー

なにを考えて生きようか

腹立つこと。イライラすること。

目の前のことにいっぱいいっぱいになるのはわかる。

それでも、ひとつだけに集中していいのならまだ苦労はしない。

けど現実はあまくなくて、ヒーヒー言いながらも他にも目を向けてこなさなきゃいけないこともある。

でもだいたい、ヒーヒーの時は周りが見えなくなって、どんどん糸がからまってぐちゃぐちゃになって爆発することがある。

大人になればなるほど、同時にこなさなきゃいけないことは増えていくように思う。

そこでいかに空気に飲まれないかどうかが勝負でございます。

もう無理だと思ったら、あきらめるのも、才能のうちなのかなと感じるようになりました。

 

今までは何となく、負けず嫌い的な感覚で、意地でもやったるわと頑なになった結果、すべてが空回り何一つ達成できずに、自信と信頼を失う自己嫌悪に陥っていたりしました。

それもこれも、自分はやればできる子だ、と自分を過信したせいです。

まあ無理してがんばればもしかしたら出来ることもあるかもしれないけど、それをそのまま無理してやり抜こうとすると、保ってた自分のペースとか視野もくずれて、本当に出せたはずのベストも果たせず仕舞いというのがオチです。

自分はもともとそんなに出来る人間じゃない。

無理なものは無理だし、限界がある。けどそれは個性だから仕方ないこと。

もちろん、成長してできることが増えていくこともあるけど、

そこに自惚れることなく、ある程度自分の限界はここまでだろうな、という感覚を冷静に持ち続けて、無理だと思ったら無理だ、と潔く振る舞うのもひとつのセンスだし、能力なのかなあ、と。

 

今ある自分の最大限の活かし方、という見方は大切だと思っています。

今ある自分は限界があるし、できないこともある。万能な存在ではない。

それをわかった上で、どうすれば自分の限界の中でよりよい結果を残せるか。

そういうコントロールの仕方とか、ある種のあきらめというか、気の抜き方とか、余裕を持った生き方をするのがいちばんよい気がしています。

そうすると、自分のできない部分は自然と他の人がカバーしてくれるし、自分ひとりでどうにかしようとする以上に、力を抜いている割に良い物が出来上がったりするんじゃないかと思います。

自分を見失いたくないし、できるならばゆるりと楽しく生きたいもので。

出来るところはとことんやるけど、抜くところは抜いて。やってもらえることはとことんやってもらって。そうそう、「してもらう力」もひとつの才能。

 

そう、自分に言い聞かせています。

でなきゃこの社会人生活生きていけそうにありまへん。

別に毎日遅くまで残業するのが良いことではないし、だからといって早く帰れるのが良いとも言えないし。それぞれのペースがあるから、それぞれのペースで仕事もすればいい。自分のいちばん心地良いペースで。他人の秤に合わせてこれが最適だ、とか思っちゃいけない。自分の人生生きているのは自分だけで、自分の経験のもとでしか、自分にとって最適な判断などできない。

だから、自分はこう思う、っていうのがあるのは良いことな一方、

それを他人に強要する権利もない。そんなのうざいこと極まりない。

自分と他人は割り切ったほうがいい。どんなに近くても仲良くても、違う人間だから自分がコントロールできるものじゃないし、ある程度ほっといていい。

とはいえ、本当に大事な人で、お互い信頼している関係であれば、どこまでおせっかいをするべきで、どこから放っておいてもいいっていう感覚も自然にそれぞれ出てくるような気もしている。放っておいたからって仲が悪くなることもない。そういう説明できないバランスというか、絶妙な関係って確かにあって、そこに流れを任せてしまえばどうにかなる。

 

そういうのも実際、たくさん失敗して裏切られた気持ちになって、もう絶交だと思って、いつのまにかまたつながって、やっぱり好きだというような、面倒くささ極まりないプロセスを何度も繰り返していくうちに出来上がる、かけがえのない関係なんだろうと思います。

だからつまりは、いろいろ書いたけど、たくさん失敗して嫌な気持ちになりながらだんだん気を抜くことを学んでいくと、なんとなく心地良い生き方が見えてくるんじゃないの、というお話でした。

 

最初から器用に生きようとしないことがいいのかもね。人間だもの、感情的にもなってなんぼのもんじゃ。

 

適当に生きましょう。

言いたいことを綴る日記

インターネットがソーシャルなんちゃらで、いわゆるオープンな感じになって、

気取ったことしか言えなくなったことは事実です。

でも本当はもっといい加減だし適当だし怠け者でふらふらしてる。

そういうのもオープンであるべきなのかもしれないけど、

個人的に考えてみると、

どうしたってそういうふらふらな自分は

リアルな友達に知られるのは恥ずかしいし、

仕事場の人に見られると妙な罪悪感あるし、

結局、どこかしらに匿名の居場所が必要だと思ったのです。

ということで、このブログでは、言いたいこと存分に書きますよ。

毎日まじめに前向きなことなど、言えません!!

 

このブログは、山に囲まれた自然の中ですきな音楽に身を任せ

ビールを飲むような気持ちで運営していきます。

それゆえブログ名はYAMA OTO BEER、つまり「山音ビール」です。

よろしくお願いします・